「健康経営」という言葉が経営会議の議題に上がるようになってから久しいが、「実際にどれくらいコストが削減できるのか」「何から手をつければよいのか」を具体的に把握している企業はまだ多くない。本記事では、経済産業省が推進する健康経営の枠組みと、生産性損失を左右する「プレゼンティーズム」の実態、そして自社に合った投資対効果(ROI)の測り方を、公的資料と学術研究をもとに解説する。
健康経営とは何か――経済産業省が推進する制度の全体像
健康経営とは、従業員の健康管理を経営戦略の一環として捉え、生産性向上・採用力強化・企業価値向上につなげる考え方である[1] 。経済産業省は2016年から「健康経営優良法人認定制度」を運営しており、2025年度(健康経営優良法人2025)では大規模法人部門3,400法人・中小規模法人部門19,796法人が認定を受けた。2024年度(同2024)の大規模2,988法人・中小16,733法人からいずれも大幅に増加しており、健康経営への関心が急速に広がっていることがわかる[1] 。
制度が注目される理由のひとつは、認定企業が採用・金融・取引先評価で有利になる点である。大手機関投資家や融資機関が健康経営の取り組みを評価基準に組み込む動きも広がっており、「従業員の健康=見えないコスト」から「従業員の健康=経営資本」へと視点が変化しつつある。
認定メリット(例) :採用応募者増加、融資条件の改善、取引先・顧客の信頼獲得、健康経営銘柄選定による知名度向上
主な認定要件 :定期健診受診率100%に向けた取り組み、ストレスチェックの実施・活用、生活習慣病対策、疾病の早期発見・治療継続、産業医・保健師との連携など
まず「自社が何に取り組むべきか」を整理する起点として、経済産業省が毎年更新している「健康経営度調査」の質問票(非公開)と「健康経営ガイドブック」を参照することを勧める。
図1:健康経営優良法人認定制度の仕組みと2025年度認定数(経済産業省資料をもとに作図)
プレゼンティーズムとアブセンティーズム――見えにくい損失の正体
企業の健康関連コストは大きく3つに分類できる。医療費・保険給付(最も見えやすい)、アブセンティーズム(欠勤・休職による損失)、そしてプレゼンティーズム(出勤しているが体調不良で生産性が低下している状態)だ。
注目すべきは比率である。一般に、プレゼンティーズムによる損失は医療費や欠勤(アブセンティーズム)よりも大きいとされることが多く、研究によってはプレゼンティーズムが全健康関連コストの大半を占めるとの報告もあるが、比率は対象集団・測定手法・業種によって大きく異なり、単一の数値で代表させることは難しい。欠勤は人事システムに記録されるため把握しやすいが、出勤しながら低パフォーマンスになっているプレゼンティーズムは「見えない損失」として放置されやすい点は共通している。
日本人を対象とした東京大学発の「東大1項目版(SPQ)」による調査では、日本人労働者のプレゼンティーズム平均値は84.9% とされており、つまり平均的な労働者が約15.1%の生産性低下を抱えながら働いていると試算される[2] 。100名規模の企業であれば、常時15名分の稼働が「空洞化」している計算になる。
プレゼンティーズムを引き起こす主な要因は以下のとおりである。
過重労働・睡眠不足・慢性疲労
腰痛・肩こりなどの筋骨格系の不調
抑うつ・不安障害・適応障害などのメンタルヘルス問題
花粉症・アレルギー性鼻炎など季節性疾患
生活習慣病(高血圧・糖尿病・脂質異常)の未治療・放置
これらは「気合いで何とかなる」問題ではなく、適切な医療的・組織的介入を必要とする。プレゼンティーズムを放置し続けることは、個人の健康悪化だけでなく、チーム全体のパフォーマンスと職場風土にも影響するとされている。
プレゼンティーズムの測定方法――ROI計算の土台づくり
ROIを算出する前に、現状のベースラインを把握する必要がある。プレゼンティーズムの主な測定ツールは以下の3種類である[2] 。
WHO-HPQ(3問) :世界保健機関(WHO)が開発し、国際比較研究にも使われる標準ツール。絶対的・相対的プレゼンティーズムの両方を算出できる。
東大1項目版(SPQ) :単一設問で「現在の業務遂行能力を100%として今週は何%か」を問うシンプルな設計。日本人の回答傾向(極端な選択肢を避ける傾向)に配慮した構造で、健康経営度調査でも採用されている。
WFun(7問) :機能障害(仕事の遂行困難さ)を多角的に測定するツール。症状の深刻度把握に向く。
測定結果から損失コストを計算する基本式は次のとおりである。
プレゼンティーズム損失割合(%)= 100% - プレゼンティーズム測定値(%)
労働生産性損失額(円)= 損失割合(%)× 年間賃金(円)
例えば、平均年収500万円・従業員100名の企業でプレゼンティーズム損失割合が平均15%であれば、損失額は年間7,500万円 と試算される。実際には部門・職種ごとに差があるため、全社アンケートで分布を把握し、リスクの高い集団を特定することが効果的な介入の第一歩となる。
図2:プレゼンティーズム測定ツールの比較と損失コスト試算の流れ(東大1項目版SPQの報告値をもとに作図 [2])
健康経営のROI――介入効果の根拠と現実的な期待値
「健康に投資するといくら戻ってくるか」は経営者が最も気にする点だろう。複数の海外研究では、職業保健介入(Occupational Health Interventions)のROIについてさまざまな推定値が報告されている。
PMC(PubMed Central)に掲載されたシステマティックレビュー・メタ分析(2025年)では、職業保健介入全体のROIはROI 1.92(95%CI -0.34〜4.17)と正の傾向が示されたが、統計的有意水準には達しなかった[3] 。一方、メンタルヘルス・ストレス介入に限定すると ROI 2.99(95%CI 0.02〜5.96、p=0.049)と統計的に有意な正の効果 が確認されており[3] 、精神的健康に焦点を当てた施策が特に費用対効果に優れることが示唆されている。
個別事例としては、メンタルヘルス看護プログラムへの投資で1ユーロあたり11ユーロのROIを達成した報告もある[3] 。ただし、これは特定の条件下での事例であり、すべての企業に同等の効果を保証するものではない。
職場健康増進プログラムとプレゼンティーズムの関係を検討したシステマティックレビュー(Ospina et al., 2015、PMC掲載)では、14件の質の高い研究のうち約71%(10件)がプレゼンティーズムへの正の影響を示した[4] 。効果的なプログラムに共通していたのは「組織的リーダーシップの関与」「健康リスクスクリーニング」「個別化プログラム」「支援的な職場文化」の4要素だった。
ROIを高める施策の優先順位(現時点のエビデンスより):
第1優先 :メンタルヘルス介入(EAP・カウンセリング・管理職研修)――ROIの根拠が最も強い
第2優先 :筋骨格系(腰痛・肩こり)対策――欠勤削減への直接的な効果が期待される
第3優先 :生活習慣病予防(健診・保健指導)――中長期の医療費・離職コスト削減に寄与
第4優先 :エンゲージメント向上施策――離職率低下を通じて採用コストを削減
注意点として、ROIの測定には通常1〜3年のリードタイムが必要である。「やったが効果が出なかった」と判断するには早すぎるケースも多い。ベースライン計測→介入→定点観測(6か月・12か月・24か月)の設計が、経営への説明責任を果たすうえで重要となる。
ストレスチェックと産業保健体制――法律が求める最低限の対応と活用のポイント
日本では、労働安全衛生法第66条の10に基づき、常時50人以上の労働者を使用する事業場に対してストレスチェックの年1回実施が義務付けられている(2015年12月施行)[5] 。さらに2025年の法改正により、50人未満の事業場でも2028年4月から義務化される方針が示された[5] 。
ストレスチェックは「義務だから実施する」だけでは健康経営効果が出にくい。以下の活用ポイントを押さえることで、プレゼンティーズム低減につながるデータとして機能させることができる。
集団分析の活用 :個人の結果だけでなく、部門・職種ごとの集団分析レポートを管理職と共有し、リスクの高い職場環境を特定する。
面接指導との連動 :高ストレス判定者への産業医面接を形骸化させず、実際の業務調整(残業削減・業務内容の見直し)につなげる。
経年比較 :1年限りのデータではなく、年次変化をトレンドとして把握することで、施策の効果検証に使う。
プレゼンティーズム指標との組み合わせ :ストレスチェックにSPQなどのプレゼンティーズム質問を追加することで、健康状態と生産性の関連を同時に把握できる。
産業医・保健師・EAP(従業員支援プログラム)の連携体制を整備することも、健康経営ROIを向上させる基盤となる。外部委託を活用しながらでも、担当者が結果を経営に報告するラインを確立することが先決である。
受診を検討したいサイン
本記事は健康経営・ROI・プレゼンティーズムに関する一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の医療・法律・経営アドバイスに代わるものではない。以下のサインが従業員・組織のなかに見られる場合は、産業医・医療機関・専門家への相談を検討されたい。
特定の部門で欠勤・体調不良の訴えが集中している
離職率が同業他社・業界平均と比べて明らかに高い
ストレスチェック結果で高ストレス者割合が年々上昇している
「出社しているが仕事が手につかない」と訴える従業員が増えている
管理職が部下の体調変化に気づいていない・対応できていない
産業医が選任されているが面接指導の実施件数がゼロに近い
健診有所見者(要精密検査・要治療)が適切に医療機関を受診していない
図3:健康経営ROI向上の施策優先度と、専門家相談を検討すべき組織サインの整理
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参考文献
経済産業省(2025) 「健康経営優良法人2025認定法人が決定しました」経済産業省プレスリリース. 経産省公式ページ ― 本記事での引用箇所:健康経営優良法人2025年度認定数(大規模3,400法人・中小19,796法人)および制度概要
健康経営実務資料(2023) 「プレゼンティーズムによる損失コストの測定方法:WHO-HPQ・東大1項目版の比較」ストレスチェックマガジン. 参照ページ ― 本記事での引用箇所:東大1項目版(SPQ)による日本人平均84.9%(損失割合15.1%)の数値、測定ツール3種の比較
Knaepen L, et al.(2025) 「Occupational health interventions' impact on absenteeism and economic returns: A systematic review and meta-analysis」Scand J Work Environ Health . PMC ― 本記事での引用箇所:職業保健介入全体のROI 1.92・メンタルヘルス介入でROI 2.99(p=0.049)の統計的有意な効果
Ospina MB, et al.(2015) 「Are workplace health promotion programs effective at improving presenteeism in workers? A systematic review and best evidence synthesis」BMC Public Health . PMC ― 本記事での引用箇所:14件の高品質研究のうち71%がプレゼンティーズムへの正の影響を示した、効果的プログラムの4要素
厚生労働省(2015、2025年改正) 「ストレスチェック制度について」労働安全衛生法第66条の10. 厚生労働省 東京労働局 ― 本記事での引用箇所:ストレスチェック義務化対象(50人以上)・2028年からの50人未満への拡大方針
本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、診断・治療・法律・経営アドバイスに代わるものではありません。従業員の健康問題や組織の対応については、産業医・医師・社会保険労務士など専門家にご相談ください。