「採用しても、すぐ辞めてしまう」「ベテランが体調を崩して戦力ダウン」——そうした悩みを抱える経営者・人事担当者は少なくありません。従業員の定着率を左右する要因は待遇や職場文化だけではなく、「健康」が中核にある ことが、近年の国内外の研究で明らかになっています。本記事では、従業員の健康と定着率の関係をエビデンスとともに整理し、具体的な施策の進め方を解説します。
なぜ健康が定着率を左右するのか
従業員が職場を去る理由のひとつに、心身の不調があります。厚生労働省「令和5年 労働安全衛生調査(実態調査)」によると、仕事や職業生活に関して「強い不安・悩み・ストレスを感じている」と回答した労働者の割合は82.7% にのぼります[6] 。ストレスが高い職場環境は、高ストレス者の離職リスクを高めることが明らかになっており、Kachi ら(2020)の大規模前向きコホート研究では、男性高ストレス者の離職ハザード比は2.86(95%CI: 1.74–4.68) と報告されています[7] 。健康施策は「福利厚生の充実」という枠を超えた人材リテンション戦略の核心 と捉えられています。
また、体調不良を抱えながらも出社し続ける「プレゼンティーズム(presenteeism)」も見逃せません。日本人労働者を対象とした2025年の研究(Yoshimoto ら)では、約35.6%の労働者が何らかの健康上の問題が業務に影響していた と報告しています[1] 。腰痛・肩こり・メンタル不調が主な原因であり、放置すれば生産性低下だけでなく離職につながりかねません。こうした状況を早期に把握し対処することが、定着率の向上に直結するとされています。
図1:健康上の問題が放置されると生産性低下・離職リスク上昇につながる構造(概念図)
健康経営優良法人の離職率データ
経済産業省と日本健康会議が認定する「健康経営優良法人」制度は、健康施策に積極的な企業を可視化・評価する仕組みです。2026年3月時点での認定数は大規模法人部門で3,765社、中小規模法人部門で23,085社に達し、申請社数は急増しています。
注目すべきは離職率のデータです。健康経営優良法人2026(中小規模法人部門・従業員100人以上規模)の離職率は5.4% [5] とされており、厚生労働省「令和5年雇用動向調査」における全体離職率(15.4%)[8] と比較すると大幅に低い水準 にあります。
ただし、この数値は「健康経営を実施したから離職率が下がった」という因果関係を直接証明するものではありません。もともと経営基盤が安定した企業が健康経営に取り組みやすい、という選択バイアスの可能性も含んでいます。しかしながら、健康経営に取り組む組織が人材定着の面で良好な結果を示している傾向は、参考になるデータと考えられています。
また、Yano ら(2022)が日本の健康経営プログラムに参加した1,593社(従業員約436万人)を分析した研究では、従業員の喫煙率、保健サービス費用、睡眠充足率、運動習慣などのライフスタイル関連健康指標が企業の利益と関連していることが報告されています[2] 。
プレゼンティーズムとアブセンティーズムの経済的損失
従業員の健康問題は、目に見えないコストとして企業にのしかかります。主な概念は以下の2つです。
プレゼンティーズム(presenteeism) :健康上の問題を抱えたまま出勤しているが、作業効率が低下している状態。
アブセンティーズム(absenteeism) :健康上の理由による欠勤・休業。
Yoshimoto ら(2025)の研究では、プレゼンティーズムによる損失コストを試算しており、従業員1,000人あたり年間で腰痛が約48万8千ドル、肩こり・頸部痛が約34万6千ドル、メンタル疾患が約32万7千ドルにのぼるとされています[1] 。メンタル不調は20〜29歳の若手で最も高い割合を占めており、若年層の早期離職につながりやすいと指摘されています。
また、Wada ら(2013)は日本人労働者6,777人を対象とした調査で、抑うつ・不安・情動障害を抱える従業員は、そうでない従業員と比較して1人あたりの賃金損失(プレゼンティーズムによる)が相対的に高いことを報告しています[3] 。メンタルヘルスへの早期対応が、生産性の維持と離職防止の両面で重要とされています。
図2:Yoshimoto ら(2025)[1] をもとに作図——健康問題別プレゼンティーズムコストの比較(1,000人/年)
職場の健康支援がプレゼンティーズムを左右する
「職場でサポートされていると感じているか」という従業員の主観的認識が、プレゼンティーズム発生率に大きく影響することが明らかになっています。Kurogi ら(2025)が日本人労働者1,879人を対象にした前向きコホート研究では、職場健康支援の認知が低いグループのプレゼンティーズム発生率が10.4%であったのに対し、高いグループでは6.2% と顕著に低かったと報告されています[4] 。
この研究が示すのは、具体的な施策の導入だけでなく、「会社が従業員の健康を気にかけている」というメッセージを届けることが、実際の健康アウトカムにも影響するということです。産業医の面談体制を整える、ストレスチェック後のフォローアップ面談を丁寧に行う、管理職が部下の体調変化に気づきやすい環境をつくる——こうした取り組みの積み重ねが、従業員の安心感と生産性維持の土台になると考えられています。
企業規模や業種を問わず、まずは以下の3つの観点から現状を把握することが出発点とされています。
健康診断受診率と事後フォローの実施状況 :受診率100%と事後対応(二次健診勧奨・産業医との連携)が基本。
ストレスチェックの活用度 :実施するだけでなく、集団分析結果を職場環境改善に結びつけているか。
管理職の健康マネジメントスキル :部下の変化に気づき、適切に声をかけられるかどうか。
実務担当者が取り組むべきステップと注意点
健康経営を「認定を取ること」で終わらせず、実際の定着率向上に結びつけるには、現場での継続的な取り組みが欠かせません。以下に実務上のステップを示します。
現状把握(データ収集) :離職率・欠勤率・ストレスチェック結果・プレゼンティーズム指標(WFun、SPQ等)を定期的に収集し、ベースラインを設定する。
優先課題の特定 :年代別・部門別のデータを分解し、高リスク層(高ストレス者・有所見者・長時間労働者)を特定する。
施策の設計と実施 :腰痛・メンタルなど課題に応じた施策(職場体操、EAP導入、管理職研修など)を整備する。健診・ストレスチェックはベースとなる法定要件として確実に実施する。
効果測定と軌道修正 :6〜12ヶ月後に指標を再測定し、PDCAを回す。小さな取り組みの積み上げが定着率に反映されるとされている。
特にメンタルヘルス対策については、2028年度から従業員50人未満の事業場にもストレスチェックが義務化される予定です(2025年改正労働安全衛生法)。中小企業においても早期に体制を整えることが、準備コストの軽減と人材定着の両面で有利になると考えられています。
施策を始める際に陥りやすい落とし穴についても押さえておきましょう。
「イベント型」で終わってしまう :健康セミナーや運動イベントを単発で実施しても、継続的な行動変容や職場環境の整備には結びつきにくいとされています。定期的な仕組みとして組み込むことが重要です。
数字を追いすぎて現場が疲弊する :健康スコアや受診率目標を管理職のKPIにしすぎると、現場のプレッシャーが増し、かえって離職につながるリスクがあります。
プライバシーへの配慮不足 :ストレスチェック結果や個人の健診データは要配慮個人情報です。適切な管理体制と説明責任が法的にも求められます。
管理職の理解が得られていない :どれほど良い施策も、現場の管理職が協力的でなければ浸透しません。管理職向けの研修・啓発をセットで行うことが現場定着の鍵とされています。
施策の導入にあたっては、社内の担当者だけで完結しようとせず、産業医・産業看護職・外部EAPなどの専門職と連携することが、持続可能な健康経営の基盤になります。
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受診を検討したいサイン(レッドフラッグ)
以下のような状況が職場や従業員個人に見られる場合は、専門的なサポートを検討することが望まれます。企業としては産業医・産業保健スタッフ・外部EAPへの相談を、従業員個人としては医療機関(内科・精神科・心療内科・整形外科等)への受診を検討してください。
ストレスチェックで高ストレス者に該当し、産業医面談を希望している従業員がいる
欠勤・遅刻・早退が特定の従業員に集中している
部署単位で離職・休職が続いている(職場環境要因が疑われる)
従業員から「体がつらい」「眠れない」「仕事に集中できない」という訴えが増えている
健康診断で有所見者が多く、事後措置(産業医意見・就業制限等)が整備されていない
長時間労働が常態化しており、月80時間以上の時間外労働者に対する産業医面談が実施されていない
図3:職場での健康レッドフラッグと対応の考え方(概念整理図)
参考文献
Yoshimoto T, Matsudaira K, Oka H, et al. (2025) 「Presenteeism Caused by Health Conditions and Its Economic Impacts Among Japanese Workers in the Post-COVID-19 Era」Journal of Occupational and Environmental Medicine , Vol.67, No.4. PMC12129377 ― 本記事での引用箇所:「約35.6%の労働者に健康問題が業務影響」「腰痛・肩こり・メンタル不調のプレゼンティーズムコスト試算」
Yano Y, et al. (2022) 「The associations of the national health and productivity management program with corporate profits in Japan」Epidemiology and Health , Vol.44, e2022080. PMC10106540 ― 本記事での引用箇所:「生活習慣関連健康指標と企業利益の関連(1,593社・従業員約436万人)」
Wada K, Arakida M, Watanabe R, et al. (2013) 「The economic impact of loss of performance due to absenteeism and presenteeism caused by depressive symptoms and comorbid health conditions among Japanese workers」Industrial Health . PubMed PMID:23892900 ― 本記事での引用箇所:「抑うつ・不安を抱える従業員の1人あたり賃金損失が相対的に高い」
Kurogi K, Ikegami K, Ando H, Ogami A. (2025) 「Effect of perceived workplace health support on absenteeism and presenteeism among Japanese workers: a prospective cohort study」Journal of Occupational Health . PMC12012702 ― 本記事での引用箇所:「職場健康支援の認知が高いグループのプレゼンティーズム発生率6.2%(低群10.4%との比較)」
経済産業省 ヘルスケア産業課(2025年4月) 「これからの健康経営について」経済産業省PDF資料 ― 本記事での引用箇所:「健康経営優良法人2026の認定数(大規模3,765社・中小23,085社)」「中小規模100人以上の離職率5.4%」
厚生労働省(2024年) 「令和5年 労働安全衛生調査(実態調査)の概況」厚生労働省PDF ― 本記事での引用箇所:「仕事や職業生活に関して強い不安・悩み・ストレスを感じている労働者の割合82.7%」
Kachi Y, Inoue A, Eguchi H, et al. (2020) 「Occupational stress and the risk of turnover: a large prospective cohort study of employees in Japan」BMC Public Health , 20, 174. PMC7001282 ― 本記事での引用箇所:「男性高ストレス者の離職ハザード比2.86(95%CI: 1.74–4.68)(金融サービス業・3,892人の男性を含む大規模前向きコホート研究)」
厚生労働省(2024年) 「令和5年 雇用動向調査結果の概要」厚生労働省 ― 本記事での引用箇所:「令和5年雇用動向調査の実公表値・全体離職率15.4%(健康経営優良法人5.4%との比較基準)」
本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、診断・治療・特定の施策効果の保証に代わるものではありません。従業員の健康問題や職場環境の改善については、産業医・産業保健スタッフ・労働基準監督署・外部専門機関にご相談のうえ、個別の状況に合わせてご判断ください。