職場のハラスメントは、単なる人間関係の問題にとどまらず、従業員のメンタルヘルスを損ない、組織全体の生産性・離職率・法的リスクに直結する経営課題です。厚生労働省の2024年度(令和6年度)の統計では、精神障害による労災支給決定件数が1,056件と前年度比173件増の過去最多を記録し、発病の要因として「上司等からのパワーハラスメント」が224件(全体の第1位)を占めました[1] 。本記事では、人事・総務・経営に関わる方に向けて、ハラスメント対策とメンタルヘルス推進を一体的に進め、心理的安全性のある職場を構築するための具体的な手順を整理します。
なぜ今ハラスメント対策が経営課題なのか――法令と損失コストの両面から
2019年に改正された労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)は、大企業に2020年から、中小企業にも2022年4月から職場のパワーハラスメント防止措置を義務付けました[2] 。義務不履行の場合、厚生労働省による企業名の公表や過料のほか、民事上の使用者責任を問われるリスクが生じます。
法令遵守の観点だけでなく、経済損失としての重さも見逃せません。出勤はしているが心身の問題でパフォーマンスが低下している状態(プレゼンティーイズム)による損失は、欠勤(アブセンティーイズム)や医療費をはるかに上回る規模になるとされており、健康関連コストの主要因として各種研究で指摘されています。ハラスメントが起きやすい職場では、このプレゼンティーイズムが慢性化しやすいことが各種調査から示唆されています。
さらに2024年度からは、健康経営銘柄・健康経営優良法人ホワイト500の認定要件として「従業員パフォーマンス指標(アブセンティーイズム・プレゼンティーイズム・ワーク・エンゲージメントのいずれか)の計測・開示」が必須化されました。ハラスメント対策とメンタルヘルス施策は、健康経営認定の取得に直接つながる経営戦略上の優先事項といえます。
法的リスク :パワハラ防止措置の義務化(2022年〜全企業)。不履行は企業名公表・過料・民事責任のリスク
経済損失 :精神障害労災支給決定1,056件(2024年度・過去最多)はそれぞれが補償費用・代替人員コスト・レピュテーション損失を伴う
健康経営認定 :2024年度からパフォーマンス指標の計測・開示が必須要件に加わり、メンタルヘルス施策の可視化が求められる
図1:ハラスメントが引き起こす3つの経営リスク(法令・コスト・認定)の全体像
職場のハラスメント実態――令和5年度調査が示す現状
厚生労働省「令和5年度職場のハラスメントに関する実態調査」によると、過去3年間にパワーハラスメントを経験した労働者の割合は全体の19.3%に達しました。男性管理職では24.0%、女性管理職では23.6%と、管理職層にも広くハラスメントが及んでいることが確認されています[3] 。
企業への相談窓口に寄せられるハラスメントの種類を見ると、パワハラが64.2%で最多、次いでセクハラ39.5%、顧客等からの著しい迷惑行為(カスタマーハラスメント)が27.9%と続きます。カスハラは前回調査(19.5%)から8.4ポイント増加しており、特に医療・福祉(53.9%)や宿泊・飲食業(46.4%)での増加が顕著です[3] 。
一方、精神的な影響という観点では、令和5年度の労働安全衛生調査で、現在の仕事や職業生活に強いストレスを感じる労働者の割合が82.7%(前年82.2%)に達したことが報告されています[7] 。職場のストレス要因として「仕事の量・質」「対人関係」が上位を占め、ハラスメント的な対人関係がメンタルヘルス悪化の主要因になっている実態が浮き彫りになっています。
パワハラ経験率:労働者全体の19.3% (管理職では24%前後)
企業への相談:パワハラ64.2% / セクハラ39.5% / カスハラ27.9%
強いストレスを感じる労働者:82.7% (令和5年度調査)
精神障害労災の支給決定件数:1,056件(2024年度、6年連続増加)
ハラスメントが健康に与える長期的な影響――エビデンスから見えること
ハラスメントは短期的なストレス反応にとどまらず、長期的な疾病リスクを高めることが縦断研究で示されています。Abdullaら(2023年)が921名の大学職員を対象に行った23年間の追跡研究では、慢性的な職場ハラスメントへの曝露が冠動脈疾患の発症リスクを242%増加 させる(OR=3.42, p<0.05)という知見が報告されています[4] 。また慢性的なセクシュアルハラスメントへの曝露は、関節炎・リウマチ性疾患のリスクを56%、偏頭痛のリスクを68%高めることが示されました。
国内においても、精神障害による労災認定の原因第1位は2024年度に「上司等からのパワーハラスメント(224件)」となっており、前年度(157件)から67件(43%)の大幅な増加が記録されました[1] 。ハラスメントは、発生した瞬間の問題だけでなく、数年単位で従業員の心身健康と医療費・補償コストに影響し続けることを、企業は経営レベルで認識する必要があります。
また、職場のバーンアウト(燃え尽き)は心理的安全性の欠如と強く結びついています。Sullivanら(2024年)の研究では、心理的安全性が職場環境とバーンアウトの関係を部分的に媒介しており、心理的安全性の向上によって感情的疲弊が最大37%、非人格化(冷笑的態度)が最大32%低下するとの結果が得られています[5] 。
図2:慢性的な職場ハラスメントと健康リスク増加の関係(Abdullaら2023年[4] をもとに作図)
心理的安全性の確立――職場環境を変える中核的アプローチ
ハラスメント対策の根本は、「問題が起きてから対処する」事後対応から、「ハラスメントが起きにくい職場文化をつくる」予防的アプローチへの転換にあります。その中核概念が心理的安全性(Psychological Safety) です。
心理的安全性は、ハーバード大学のAmy Edmondson教授が1999年に提唱した概念で、「チームメンバーが対人リスクを恐れずに発言・行動できるという共有された信念」と定義されます。Googleが2012年から4年間実施した「プロジェクト・アリストテレス」では、チームの成果を左右する最大の要因として心理的安全性が特定されました。心理的安全性が高いチームのメンバーは離職率が低く、マネジャーから「効果的に働く」と評価される機会が2倍多いとされています[8] 。
Mogårdら(2023年)による160のマネジメントチーム(1,150名)を対象とした研究では、心理的安全性が行動統合(情報共有・相互協力)を仲介変数として、タスク成績(IE=0.51, 95%CI 0.37–0.69)と個人満足度(IE=0.33, 95%CI 0.23–0.45)の両方に有意な正の影響を与えることが確認されています[6] 。心理的安全性の向上は「ハラスメントが起きにくい職場文化」そのものの形成につながります。
実務上の出発点として、以下のアクションが推奨されます。
管理職行動の明文化 :発言を遮らない・失敗を責めない・質問に感謝を示す等の行動規範を設定
1on1ミーティングの定例化 :週次または隔週で上司と部下が対話する場を継続的に設ける
匿名相談・フィードバック窓口の設置 :ハラスメントに限らず困りごとを報告しやすい複線化された仕組みを整備
管理職研修の年1回以上の実施 :アンコンシャスバイアス・ハラスメント境界線・傾聴スキルを扱う研修
企業が実施すべき具体的なハラスメント対策の4ステップ
法令上の義務と組織文化の改善を両立させるため、以下の4段階で対策を整備することが推奨されます。パワハラ防止法が定める「雇用管理上の必要な措置」と健康経営の実践をセットで進めることで、認定取得と職場改善を同時に推進できます。
第1ステップ:方針の明確化と周知 ――「ハラスメントを許容しない」旨の経営方針を策定し、就業規則への明記と全社集会・イントラネットでの定期的な周知を行います。
第2ステップ:相談体制の複線化 ――社内窓口(人事・コンプライアンス)と社外EAP(従業員支援プログラム)・ハラスメント相談ホットラインを組み合わせます。相談者のプライバシー保護と不利益取扱いの禁止を明示することで「相談しやすさ」が高まります。
第3ステップ:ストレスチェック制度の活用 ――従業員50人以上の事業場への義務化に加え、2025年5月の法改正で50人未満にも義務化が拡大されました。集団分析の結果を職場環境改善に活用することで高ストレス部署への早期介入が可能になります。制度開始から5年を経た時点の調査では、集団分析活用により「労働者のストレス反応が有意に改善した」との効果が確認されています[2] 。
第4ステップ:事後対応と再発防止 ――ハラスメント発生時は、迅速な事実確認・被害者支援・行為者への指導・再発防止策の策定という手順を法令上も求められます。ハラスメント対応マニュアルを事前に整備しておくことが有事の混乱を防ぎます。
図3:ハラスメント対策4ステップと職場支援の体制整備フロー
受診を検討したいサイン――従業員が示す職場ストレスのレッドフラッグ
職場内でのハラスメントやストレスは、従業員が自ら声を上げる前に身体・行動・メンタルの変化として現れることがあります。人事・管理職が以下のサインを早期に把握し、産業医・保健師・EAPへの相談を促すことが重要です。企業としての支援体制を整えるとともに、症状が継続する場合は本人が医療機関(精神科・心療内科)を受診できる環境を整えることを検討してください。
欠勤・遅刻・早退が急増している、または繰り返されている
業務パフォーマンスが明らかに低下し、本人もそれを自覚している様子がある
表情が乏しくなった、孤立していると感じている様子がある、同僚との会話が極端に減った
「眠れない」「頭痛や胃痛が続く」などの身体症状を訴えるようになった
ミスが急増している、または集中力が著しく低下している
自傷・「消えてしまいたい」などの言動が見られる(この場合は緊急対応が必要)
ストレスチェックで高ストレス判定を受けたが医師との面接を希望しない、またはセルフケアへの関心を示さない
なお、上記のサインを示す従業員への対応にあたっては、管理職が「問題を抱え込まず」産業医・人事・EAP等の専門家に早期につなぐことが重要です。管理職の過重な負担を避けるためにも、支援ルートを事前に整備しておくことをお勧めします。
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参考文献
厚生労働省(2025) 「令和6年度 過労死等の労災補償状況」厚生労働省 . https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_59039.html ― 本記事での引用箇所:精神障害の労災支給決定件数1,056件(過去最多)、パワハラによる認定224件(原因第1位)の根拠
厚生労働省(2022) 「職場におけるパワーハラスメント対策が事業主の義務になりました」厚生労働省 . https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000611025.pdf ― 本記事での引用箇所:パワハラ防止法の義務化(2020年・2022年)の根拠、ストレスチェック制度の効果に関する記述
厚生労働省(2024) 「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査」厚生労働省 . https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000165756.html ― 本記事での引用箇所:パワハラ経験率19.3%(管理職24%前後)、相談種別(パワハラ64.2% / カスハラ27.9%増加)の根拠
Abdulla AM, Lin TW, Rospenda KM(2023) 「Workplace Harassment and Health: A Long Term Follow up」Journal of Occupational and Environmental Medicine Vol.65, No.11, pp.899-904. PubMed ― 本記事での引用箇所:慢性的な職場ハラスメントが冠動脈疾患リスクを242%増加させる(OR=3.42)という23年間追跡研究の根拠
Sullivan EE, Matz-Costa C, Patterson E, et al.(2024) 「Psychological safety is associated with better work environment and lower levels of clinician burnout」PMC . PMC ― 本記事での引用箇所:心理的安全性の向上によって感情的疲弊が最大37%・非人格化が最大32%低下するという媒介効果の根拠
Mogård EV, Rørstad OB, Bang H(2023) 「The Relationship between Psychological Safety and Management Team Effectiveness: The Mediating Role of Behavioral Integration」International Journal of Environmental Research and Public Health Vol.20, No.1, Article 406. PMC ― 本記事での引用箇所:心理的安全性がタスク成績(IE=0.51)・個人満足度(IE=0.33)に与える有意な間接効果の根拠
厚生労働省(2024) 「令和5年 労働安全衛生調査(実態調査) 結果の概況」厚生労働省 . https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/r05-46-50b.html ― 本記事での引用箇所:現在の仕事や職業生活に強いストレスを感じる労働者の割合82.7%(前年82.2%)の根拠
Google re:Work(公開) 「チームの効果性に関する Google の調査結果から判明したこと」Google re:Work . https://rework.withgoogle.com/intl/jp/guides/understanding-team-effectiveness ― 本記事での引用箇所:心理的安全性が高いチームのメンバーがマネジャーから「効果的に働く」と評価される機会が2倍多いというプロジェクト・アリストテレスの知見の根拠
本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、診断・治療に代わるものではありません。法令情報は2026年7月時点のものです。個別の事案については、専門の弁護士・社会保険労務士・産業医等にご相談ください。従業員の症状が続く・悪化する場合は、医療機関(精神科・心療内科等)にご相談ください。