従業員のメンタルヘルス問題は、現代の企業経営において避けて通れない課題になっています。厚生労働省の令和5年「労働安全衛生調査(実態調査)」によると、仕事や職業生活に関して強いストレスを感じている労働者の割合は82.7% に上ります[1] 。この数字は、ほぼすべての職場でメンタルヘルス対策が必要であることを示しています。
そうした状況の中、企業が外部の専門家リソースを活用してメンタルヘルス支援を行う仕組みがEAP(従業員支援プログラム:Employee Assistance Program) です。本記事では、EAPの基本的な仕組み、導入のメリット、失敗しない選び方、そして健康経営認定とのつながりを実務視点から解説します。
EAP(従業員支援プログラム)とは何か
EAPとは、従業員が仕事上の悩みや家庭・生活上の問題を抱えたときに、企業が契約した外部の専門機関が相談窓口やカウンセリングなどを提供する仕組みです。1940年代のアメリカで飲酒問題を抱えた従業員への支援から始まり、現在では精神的健康・家族問題・法律相談・ファイナンシャルプランニングなど幅広い分野をカバーするプログラムへと発展しています。
日本では、厚生労働省が定める「労働者の心の健康の保持増進のための指針」において、EAPは「事業場外資源によるケア」 に位置づけられており、セルフケア・ラインによるケア・事業場内産業保健スタッフ等によるケアとあわせた「4つのケア」として推奨されています[2] 。
セルフケア :労働者が自らストレスに気づき、予防・対処する
ラインによるケア :管理監督者が日常の職場環境を把握し、部下の相談に対応する
事業場内産業保健スタッフ等によるケア :産業医・保健師・人事労務担当者が支援する
事業場外資源によるケア :外部の専門機関(EAPなど)の支援を活用する
EAPは第4のケアとして機能し、社内で対応しきれないケースを外部専門家に委ねることで、産業保健体制の「補完・強化」を担います。従業員は社外の第三者に相談できるため、「社内では話しにくい」プライベートな問題もカバーできる点が特徴です。
図1:厚生労働省指針が推奨する「4つのケア」体制とEAPの位置づけ
なぜ今、EAP導入を検討すべきか――制度環境の変化と経営リスク
EAPへの注目が高まっている背景には、2つの大きな制度変化があります。
1点目はストレスチェック制度の全企業への義務化 です。2025年5月に労働安全衛生法の改正法が公布され、これまで努力義務とされていた従業員50人未満の事業場にも、2028年4月からストレスチェック実施が義務化 される予定です[8] 。高ストレスと判定された従業員への面接指導・フォローアップが求められるようになるため、対応リソースを持たない中小企業にとってEAP活用は有力な選択肢になります。
2点目は健康経営優良法人認定制度 の拡大です。経済産業省が推進する「健康経営優良法人」は、2026年認定でもメンタルヘルス対策の取り組み実績が評価項目に含まれています。EAPの導入・活用実績は、認定申請の際の証跡になり得ます[3] 。
経営リスクの観点からも、メンタルヘルス不調は企業に大きなコストをもたらします。一人が休職・離職した場合、代替採用・研修コストは数十万円から数百万円に上るとされます。さらに、心身不調を抱えながら出社し続ける「プレゼンティーイズム(Presenteeism)」による生産性損失は、医療費の約7倍に達するとの国内大規模調査の知見もあります[4] 。予防的なEAP活用は、こうした見えにくいコストを抑制する可能性があります。
EAP導入が職場にもたらすとされる効果――国内外の研究から
EAPの効果については、海外を中心に多くの研究が報告されています。ただし、研究の質やプログラムの内容によって結果にばらつきがあるため、「必ず効果が出る」と断言できるものではなく、あくまで参考データとして参照することが重要です。
156名のEAP利用者と188名の非利用者を比較した前向き準実験的研究(Merrick et al., 2015)では、EAP利用者においてアブセンティーイズム(欠勤)の有意な減少(p=.001)とプレゼンティーイズムの有意な改善(p=.038)が報告されています[5] 。
また、222名を対象としたコントロール付き介入研究(Attridge et al., 2022)では、EAP介入後に心理的苦痛スコア(GHQ)が平均22.40から12.21へと有意に低下(効果量 Cohen's d=1.45)したとされています。ただしこの研究は、心理社会的安全風土(PSC)が高い職場ではより大きな効果が観察された一方、PSCが低い職場では効果が限定的であることも示しており、プログラム単体ではなく職場の組織的支援環境が整っていることの重要性を示唆しています[6] 。
ROI(費用対効果)については、Deloitteが英国で実施した職場のメンタルヘルス投資調査(2020年)において、メンタルヘルス支援に投じた1ポンドに対して平均5ポンドのリターンが見込まれると報告されています[7] (概算値であり、自社の状況によって結果は異なります)。
こうしたデータはあくまで参考値ですが、EAP導入を検討する際の費用対効果試算の土台として活用できます。
図2:Merrick et al.(2015)[5]およびAttridge et al.(2022)[6]の知見をもとに作図。EAPが欠勤・職場内生産性の両面に働きかけるとされるメカニズム。
EAPの主なサービス内容と選定ポイント
EAPプロバイダーが提供するサービスは多岐にわたります。自社が何を必要としているかを明確にしたうえで比較することが、選定の第一歩です。
外部相談窓口(EAP相談ホットライン) :従業員が直接電話・チャット・対面でカウンセラーに相談できる。匿名性が担保されているかが重要。
カウンセリング(短期介入) :精神科・心療内科につなぐ前の「グレーゾーン」対応。セッション数の上限をプロバイダーごとに確認する。
管理職向けトレーニング(ラインケア研修) :上司が部下の変化に気づき、適切に対応するスキルを身につける。
職場復帰支援(リワーク支援) :休職者が安全に職場に戻るためのコーディネーション。
ストレスチェック運営サポート :実施・集団分析・高ストレス者フォローの代行・支援。
オルガナイゼーション・コンサルテーション :組織全体のメンタルヘルス方針を策定する組織支援サービス。
プロバイダーを比較する際は以下の点を確認することをお勧めします。
カウンセラーの資格・所属(臨床心理士・公認心理師等の有資格者か)
相談経路の多様性(電話・メール・チャット・対面など)と対応時間(24時間対応か)
匿名性の保障(個人情報が企業人事に渡らない仕組みがあるか)
利用率のレポーティング(集計データで傾向把握できるか)
料金体系(全従業員一律か利用従量か)
EAPを健康経営戦略に組み込む実践ステップ
EAPは「導入すれば終わり」ではありません。利用率が低ければ投資効果は限定的です。以下のステップで計画的に推進することが求められます。
ステップ1:現状アセスメント ストレスチェックの結果、離職率、休職者数、産業医・保健師への相談件数を把握し、自社の「メンタルヘルス課題の傾向」を可視化する。
ステップ2:社内周知と心理的安全の醸成 EAPを導入しても従業員が「使っていい」と思えなければ利用は進まない。経営トップが「相談することを奨励する」メッセージを発信し、利用が不利益につながらないことを明確に示す。
ステップ3:管理職向けのラインケア研修 上司が「気づき・声かけ・つなぎ」の役割を担えるよう、定期的な研修を組み合わせる。EAP単体ではなく、ラインケアとセットで機能させることで効果が高まるとされています。
ステップ4:利用率・効果指標のモニタリング 年1回程度、利用件数・従業員満足度・休職者数の推移を追い、PDCAを回す。プロバイダーから提供される集計レポートを活用する。
ステップ5:健康経営優良法人申請への証跡整理 EAP利用記録・研修実施記録・ストレスチェック実施状況を整理し、認定申請に活用する。
受診を検討したいサイン
EAPはメンタルヘルス不調を「事前に相談できる場」として機能しますが、以下のサインが見られる従業員は、外部EAP相談にとどまらず、早期に医療機関(精神科・心療内科)への受診を促すことが望まれます。人事・管理職として状況を把握したら、産業医や保健師と速やかに連携することを検討してください。
2週間以上、気分の落ち込み・意欲低下・睡眠障害が続いている
「消えてしまいたい」「死にたい」などの言動がある(緊急対応が必要)
出勤はしているものの、業務遂行に明らかな支障が生じている
体重の急激な変化(増加・減少)や身体症状(頭痛・腹痛等)が続いている
過去に休職歴があり、同様のサインが再度見られる
アルコール摂取量の急増・薬物への依存がうかがわれる
特に「希死念慮(死にたいという気持ち)」が疑われる場合は、EAPへの橋渡しよりも先に産業医・医療機関・緊急相談窓口(よりそいホットライン:0120-279-338)に連絡することを最優先としてください。
図3:従業員のサインに応じた段階的なトリアージの考え方(EAP→産業医→医療機関)
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参考文献
厚生労働省(2024) 「令和5年 労働安全衛生調査(実態調査)の概況」厚生労働省 . 厚生労働省(PDF) ― 本記事での引用箇所:「仕事や職業生活に関して強いストレスを感じる労働者の割合82.7%」の根拠
厚生労働省(2022) 「労働者の心の健康の保持増進のための指針(メンタルヘルス指針)」厚生労働省 . 厚生労働省(PDF) ― 本記事での引用箇所:「4つのケア」と事業場外資源によるケア(EAP)の位置づけの根拠
経済産業省(2024) 「健康経営の推進について(令和6年3月)」経済産業省商務・サービスグループ ヘルスケア産業課 . 経済産業省(PDF) ― 本記事での引用箇所:「健康経営優良法人認定制度の概要・メンタルヘルス対策の評価項目」の根拠
Inoue A, Kawakami N, et al.(2014) 「Work performance in Japan: its measurement, prevalence, and associations with workplace psychosocial factors」Journal of Occupational and Environmental Medicine . PubMed ― 本記事での引用箇所:「プレゼンティーイズムによる損失が医療費の約7倍に達するとの国内知見」の根拠
Merrick ES, Volpe-Vartanian J, et al.(2015) 「The impact of employee assistance services on workplace outcomes: Results of a prospective, quasi-experimental study」Journal of Occupational Health Psychology . PubMed ― 本記事での引用箇所:「EAP利用者においてアブセンティーイズムの有意な減少(p=.001)とプレゼンティーイズムの有意な改善(p=.038)」の根拠
Attridge M, Calear AL, et al.(2022) 「Contextualising the Effectiveness of an Employee Assistance Program Intervention on Psychological Health: The Role of Corporate Climate」International Journal of Environmental Research and Public Health . PMC ― 本記事での引用箇所:「EAP介入後の心理的苦痛スコアが有意低下(GHQ: 22.40→12.21、Cohen's d=1.45)および職場の心理社会的安全風土(PSC)による調節効果」の根拠
Deloitte UK(2020) 「Mental health and employers: Refreshing the case for investment」Deloitte LLP . Deloitte UK ― 本記事での引用箇所:「メンタルヘルス支援に投じた1ポンドに対して平均5ポンドのリターンが見込まれる」の根拠
厚生労働省(2025) 「ストレスチェック制度・メンタルヘルス対策」厚生労働省 . 厚生労働省 ― 本記事での引用箇所:「2025年5月の労働安全衛生法改正による50人未満事業場へのストレスチェック義務化(2028年4月施行予定)」の根拠
本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、特定の診断・治療・サービスの効果を保証するものではありません。従業員のメンタルヘルス対策については、産業医・公認心理師等の専門家にご相談ください。従業員に緊急性が認められる場合は医療機関に速やかにご相談ください。